2000年3月28日

現代邦楽研究所第5回卒業演奏会を聞きに行ってきた。
前衛的で理解しにくいものもあったが、各パートがゆるがず、アンサンブルとして確立しているのは、やはり気持ちよく。
曲の捉え方を洋楽の人から教わっているという。
ちょっと悲しいけど、五線譜で筝を弾いてみたいという思いがあるから、それはいいなと思う。
視野を広げた勉強をしたほうがいいんじゃないだろうか。

2000年2月24日

観梅終わった。

またやってしまった。
単面単管。「紫の幻想」
調絃違い。一の糸。
一生懸命直している間、曲がめちゃくちゃ。
やっと直したら小柱だったため途中で飛んだ。
どうしようもございません。

まったくあがっていないんだけど、そういうことやっちゃってる。
途中でとめられないと思うから必死。

私の全人格および全力を試されている気がした。
客もいなかったからまだしもだけど、そもそもやっちゃいかんミスだ。たるんでる。

1999年11月29日

ここのところちょっとまたお筝感が変わってきている。

今まではお筝を「媒体」に音楽を表現しようとしているんだと思って、それを発見したことを大いに喜んでいたのだが、本当の媒体は私自身、要するに弾き手なんじゃないかと。

***金の茶釜を芸術と呼ぶなら、その芸術に値するのは、金そのものであって茶釜ではない***青山二郎

これを読んで感動した。

お筝という芸術品が私という媒体を通してなにかを人に伝える。
お筝が私にどうしてほしいのか、あるいはその曲が私にどう演奏されたがっているのか感じ取れる媒体とならなければ、筝も曲も死んでしまうのではないか。
媒体は自分なのだと思うと、無理がなくなる気がする。肩の力が抜け、私という「個」がなくなる。聞いている人にとって媒体に個は不要だと思う。演奏する側が「個」をかなぐり捨てたとき、聞き手に初めて音楽が流れ出すのではないだろうか。個という余分なものがないから音楽そのものに集中できるのだと思う。

1999年9月16日

誕生日です。すごい年齢になりました。

少し前だけど、中根先生と「鯱の城」の練習をしたときのこと

Ⅰ筝を弾いている先生の後ろでⅡ筝を弾きながら、私はこわかった。
先生の体全部から「鯱の城」の曲そのものが聞こえててくる。先生を包むように曲があふれている。
下手なことをして、その曲の流れを寸断してはいけないと思うとこわくて震えた。

***個性を伸ばすために「型」がある*** 野村萬斎
型は自分を切り替えるためのスイッチ

1999年8月20日

アーチスト 日比野克彦

****見えないものを、見えるものにする*****

見えないものを・・・・・「見てる」だけでは普通の人間なんだ。
今ショックを受けている。

聞こえない音を・・・・・
聞かせなくちゃ意味がない。どこかで誰かが必ず聞いている。

夏休み、箕輪で見た花火。
小規模だけれど、ドラマチックだった。

あんなふうに演奏したい。
プロローグがあって、爆発があって、エピローグがあるような
気持ちの中に、きちんとドラマが息づいているような。
あ”-ッ! うまくなりたい。
人になんて左右されずに、自分の心のままに