1999年11月29日

ここのところちょっとまたお筝感が変わってきている。

今まではお筝を「媒体」に音楽を表現しようとしているんだと思って、それを発見したことを大いに喜んでいたのだが、本当の媒体は私自身、要するに弾き手なんじゃないかと。

***金の茶釜を芸術と呼ぶなら、その芸術に値するのは、金そのものであって茶釜ではない***青山二郎

これを読んで感動した。

お筝という芸術品が私という媒体を通してなにかを人に伝える。
お筝が私にどうしてほしいのか、あるいはその曲が私にどう演奏されたがっているのか感じ取れる媒体とならなければ、筝も曲も死んでしまうのではないか。
媒体は自分なのだと思うと、無理がなくなる気がする。肩の力が抜け、私という「個」がなくなる。聞いている人にとって媒体に個は不要だと思う。演奏する側が「個」をかなぐり捨てたとき、聞き手に初めて音楽が流れ出すのではないだろうか。個という余分なものがないから音楽そのものに集中できるのだと思う。