1996年12月2日
紅葉、終わりました。
結局錦秋は女史に言われたとおりにすることと、もう一つどうにも間に合わないところ、一音だけ左手を入れることにしましたが、裏で練習していたら、女史がそれでいいよと声をかけてくれて、かなり緊張が解けました。
本番は一、二箇所トチリかけたけど、震えることもなく、自分の思い通りに弾けました。評価はまた別のこととして。
ソロのところもすごく心配だったけど、全然上がっていないんです。本番当日まで、ずっと「一筝」のプレッシャーがかかってたけど、相方にまるっきり心配がないので、のびのび弾けて、すごく気持ちよかった。
ソロの間をたっぷり、焦らずに取れたのがなにより嬉しい。みんなが待っていると思うと、つい走り勝ちなんだけど、この音はこの余韻まで残したいと思っているところを、私なりにではあるけど、きちんと残せたと思う。
1996年12月2日
:箏日記↓, 第4章「お筝がくれたお免状」
1996年11月28日
本当に光陰は矢の如く過ぎ去って、もう28日です。
「錦秋」ができないまま、昨日は塚山です。
三村氏は更にスピードを上げておりました。こちらは奥歯ガタガタになりながら、必死です。女史がシャシャテツの「シャ」を一つにしてみたら?とアドバイス。それには気づかなかったし、そういう風にやるとなんとか出来るのですが、気持ち的にはなんかそれこそ歯の抜けた感じで。でも明後日の本番、どちらが恥をかかずに済むのか。
三村氏の熱意に直面してる感じ。私が目一杯頑張ったって三村氏や女史にとっては蚊の鳴くようなものだけど、彼らのそれは私にとってライオンの雄たけびぐらいおっかないですよ。
「錦秋」、女史に言わせると、師範に成り立ての人が手がけるようなランクらしいんだけど、今の私、これ一曲弾くともうヘトヘトなんですよね。パワー全開で、もう残りがない。筋力トレーニングやらなきゃって。
1996年11月28日
:箏日記↓, 第4章「お筝がくれたお免状」
「錦秋、雪人形の夢」
1996年11月21日 紅葉の会
「錦秋」ができない。16日の合同練習で、三村氏が全く速度を緩めてくれなかった。
「やっぱりこのくらいの方がのるよ」と。「ついてこれたよ」とか言ってたけど、目標のスピードを低いところに置いてしまっていたので、全然だめなんですよ。なんとか30日までにはスピードアップしたいです。
一筝なんか選んだら、それはそれで手厳しいです。やっぱりちょっと怖いです。
「雪人形の夢」も入れることにしたのですが、テープと合わせていないので、合同練習では不安が残りました。中根先生が聴いていらして、しかも途中でどこかへ去っていってしまって。実は前回は女史と三村氏と中根先生の三人でやったらしいんです。もう震えてしまいますよ。光陰矢の如しですよね、30日って言ったって。
1996年11月21日
:箏日記↓, 第4章「お筝がくれたお免状」
1996年11月18日
昨日は横須賀の自由コンサートを聴きに行って来た。 女史は山谷先生と二人で「哀歌」。中根先生は「南風」。
「南風」という曲は楽曲としての面白みがあった。素人受けというにはレベルが高いけど、ギターをやる人の曲のせいか、リズムが細かく、面白い。中根先生も圧巻。
尺八も17絃もすばらしかった。しかし、何よりも驚いたのは、三絃。もう独壇場である。しゃれたリズム感。音程の確かさ。音色に全く余分なものがないこと。とにかくすごい。「お筝をやっています」と言えなくなりました。楽器に呑まれていないんですね。弾いてる姿も格好いいんです。まず余裕がある。
女史の「哀歌」は、ちょっと抑えすぎてて彼女らしくなく、残念だった。
1996年11月18日
:箏日記↓, 第4章「お筝がくれたお免状」
1996年10月30日
マコトセンセイガナクナリマシタ。 10月10日夜。
支えを失いました。いつか先生に私のお筝を聴いてもらいたかった。
今の世の中 眠りがなによりの栄養です
深尾須磨子
先生、栄養補給にお出かけですか。
ときどきは戻ってらしてください。
高校一年、声楽クラブで「愛」を理解できる声で歌いなさいと言われ、悩みました。
まだわかっていない気がするけど、人の痛みは理解できる人間になりたいです。
そういえば、信先生が音楽を志したのは、大学二年の時。19か20歳。そこからピアノを習い始めて、音楽の教師になった。中根先生もやはり19歳でお筝を始めたらしく・・・・・・偉大な人たちと、私は出会えてるんだ。
心を見失わずに。心を捨てずに 生ききらねば。
1996年10月30日
:箏日記↓, 第3章「海の青さに」絶望と覚醒の中で
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