箏日記↓

2000年5月9日

ここのところまた妙な疑問がわいている。
異常に長いスランプもあるのだが、自分のやりたいことを、またしても見失っている気がする。

「私は上手になったと思う。だから評価を受けたい。
人からの評価がなければやっていけない。小さな小さな会の中でウダウダしていたくない。だって私上手なのに」

と思った。すごくまずい状態だ。戦う相手は自分だったはずなのに。
違うことをしてみるべきかもしれない。

だが、一方でもうひとつ気がついている。
私は上手なんじゃない。できることしかやっていないだけ。
それが私のモットーだけど、無理していない。背伸びしていない。
すごく宙ぶらりん。

2000年3月28日

現代邦楽研究所第5回卒業演奏会を聞きに行ってきた。
前衛的で理解しにくいものもあったが、各パートがゆるがず、アンサンブルとして確立しているのは、やはり気持ちよく。
曲の捉え方を洋楽の人から教わっているという。
ちょっと悲しいけど、五線譜で筝を弾いてみたいという思いがあるから、それはいいなと思う。
視野を広げた勉強をしたほうがいいんじゃないだろうか。

2000年2月24日

観梅終わった。

またやってしまった。
単面単管。「紫の幻想」
調絃違い。一の糸。
一生懸命直している間、曲がめちゃくちゃ。
やっと直したら小柱だったため途中で飛んだ。
どうしようもございません。

まったくあがっていないんだけど、そういうことやっちゃってる。
途中でとめられないと思うから必死。

私の全人格および全力を試されている気がした。
客もいなかったからまだしもだけど、そもそもやっちゃいかんミスだ。たるんでる。

1999年11月29日

ここのところちょっとまたお筝感が変わってきている。

今まではお筝を「媒体」に音楽を表現しようとしているんだと思って、それを発見したことを大いに喜んでいたのだが、本当の媒体は私自身、要するに弾き手なんじゃないかと。

***金の茶釜を芸術と呼ぶなら、その芸術に値するのは、金そのものであって茶釜ではない***青山二郎

これを読んで感動した。

お筝という芸術品が私という媒体を通してなにかを人に伝える。
お筝が私にどうしてほしいのか、あるいはその曲が私にどう演奏されたがっているのか感じ取れる媒体とならなければ、筝も曲も死んでしまうのではないか。
媒体は自分なのだと思うと、無理がなくなる気がする。肩の力が抜け、私という「個」がなくなる。聞いている人にとって媒体に個は不要だと思う。演奏する側が「個」をかなぐり捨てたとき、聞き手に初めて音楽が流れ出すのではないだろうか。個という余分なものがないから音楽そのものに集中できるのだと思う。

1999年9月16日

誕生日です。すごい年齢になりました。

少し前だけど、中根先生と「鯱の城」の練習をしたときのこと

Ⅰ筝を弾いている先生の後ろでⅡ筝を弾きながら、私はこわかった。
先生の体全部から「鯱の城」の曲そのものが聞こえててくる。先生を包むように曲があふれている。
下手なことをして、その曲の流れを寸断してはいけないと思うとこわくて震えた。

***個性を伸ばすために「型」がある*** 野村萬斎
型は自分を切り替えるためのスイッチ