1997年9月29日

1997年9月29日

10月9日、田嶋先生のリサイタルがあるそうで、受け付けのお手伝いを仰せつかった。

「雪月花」から、今学んでいます。
この曲はなにか魔力を感じます。
私は出身が歌なので、今まで曲想をつかもうとする時は歌詞らしきものを当て嵌めようとしていたのだけど、どうにもぎこちなくなって行く。なんとなくそれはわかっていた。
ところが、同じ吉崎克彦作品の「華紋」の時に頭に浮かんだのは歌詞ではなく「絵」だったのです。桜の木の下で赤い振袖の姫が舞い狂う絵。
今回雪月花にたどり着いて、やはり頭の中にあるのは決して歌詞ではない。心は言葉として出てくるけど、頭でその言葉は追っていない。やはり見ているのは絵。
私は絵が書けないからかも知れない。
人物は出てこない。花の精、雪の精、月の魂として見えてくる。言葉などない。
聖霊たちは何一つ言葉など発しちゃいない。
心の中は絶叫しているのだけど、「言葉」などという小さなものになんてまとまらない。
自分の魂を叩かれ続けている。取り憑かれている。
ほんの一瞬でも気が逸れると続けて弾けない。
魔力としか言いようがない。

これを弾くためには魔力が必要です。

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音楽は心で奏でるものさ。なんて理屈ではわかっていた。心のない演奏を聴くと、つまんないな、とも思っていた。
だけど、どうしたら心で弾けるのか、その答えを探しつづけていた。
あれなのか、これなのか。今までずっとこの日記に思い当たることとか、感じることを書き続けて来た。
今読み返すと、自分の中の意識改革の流れが見えてくる。

いつも“それ”は突然くる。
突然路が開けたり、突然が見えたり、突然手が軽くなったり、それまで一体何をしてきたんだろうと思うくらい本当に「突然」なのだ。
でも、どれをとっても回り道をしてきた訳ではなく、1kmの道を5分で走ろうと、3日かかろうと、それには全部意味があるんじゃないかな。
5分で走りきったときの答えは軽くて、3日かかったものが重いとも限らないし、私は時間がかかり過ぎる方だとは思うけど、だけど自分の足で歩いて来た道である限り、その道程は覚えていられる。どんな石が落ちていたかとか、どのくらい曲がりくねっていたかとか、傾斜はあったかとか。

しかし曲に入ってからは、その道程は忘れなければならない。イメージが滞るから。
歩いてきた足元を見ていたら、転んでしまうし、その先どれだけの距離があるのかわからなければ、どれだけの深さで呼吸すればいいのか見えない。
歩いて来た道を、ただ信じればいい。信じていれば不安な音など出ない。真摯であること。真摯であれば自分を疑う必要はない。そこには驕りもない。そして真摯な演奏しか生まれてこない。
そうであるなら、「誰か」が感動してくれる筈。