第5章 飛躍、挑戦、そして新たな不安「雪月花によせて・火の鳥」

1998年5月28日

1998年5月28日

17絃、暇に任せて、ありったけの譜面を出して練習してました。火の鳥、気合入ります。
ずっとやってたら、どうにも柱が動いて仕方ない。
女史に相談したら、17絃は筝に比べて柱は動きやすいとのこと。しかも糸が太い分ズレる幅も広いのだそうで、1センチ、2センチ平気で動くもんだと。
1曲弾いていていっさい柱の位置を直さないなんてことはありえないそうで。
また、糸の振幅の一番高いところでタイミングよく爪をあてること。
火の鳥では振動している間に同じ糸は弾かないので、これが必要になる日が待ち遠しいです。

この間練習してたら、ほんの一部の糸なんだけど、それまで惑わされていた糸の振れが止まって見えた。
合宿の時に「太く見えた糸」を思い出して、感動しています。
それにしても、腕、指、肩、みんな痛いです。
必死こいています。

17絃をガンガン弾くと、一発で大汗かいています。
そのあとお筝を弾くと、もう触るだけでいい。
筋肉つきそうです。
日記をひっくり返してみると、私の転機となった最大のきっかけは、やはり昨年5月の合宿ですね。
頭の中真っ白になって真空状態になったこと。
そしてそのあと今年の観梅。逃げ隠れできない究極の状態に置かれたこと。
意識していないのに意識が変わってしまった。
やっぱ、とことん泣かなきゃだめです。

1998年5月25日

1998年5月25日

ただいま定期演奏会において「火の鳥」を発表したく考えております。アタクシが17絃で。 賛助会員のみでやることが、波紋を巻き起こすのかどうか。
またそれ以前にアタクシが弾けるのかどうか。はなはだ不安の多い野心ではあるのですが・・・・・・・

1998年5月14日 邦楽ジャーナル宗氏による「伝承ということ」より。

1998年5月14日

邦楽ジャーナル宗氏による「伝承ということ」より。

西洋音楽では、その曲は作曲者の財産となる。
日本及び東洋の音楽は、作曲家が演奏家を兼ねている事が殆どだったため、作曲者自身の演奏が伝承されていく。そのため作曲者以降の世代においては演奏(伝承)の創始者という認識になる。
地唄筝曲は一人芸であるから、伝承の解釈がずれれば、それぞれ「私が正しい」という意識に繋がる。
西洋音楽は演奏家の感性のみに基づく恣意的(思いつき、気まま)な解釈は異端とされる。

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 西洋音楽の楽譜・・・・・作曲者が自分のイメージを固定したもの
 日本音楽の楽譜・・・・・作曲者が作った原型が伝承していくにつれて変形したものを、後になって固定したもの
   明治時代ぐらいまでは派のなかでも各々の節回しが許容されていたが、大正時代頃から統率者(家元)の権威を増す目的と合奏の際の規範とするために統一する方向へ進む
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「火の鳥・沙羅・海きらら・祭りの夜の幻想」 1998年5月1日

「火の鳥・沙羅・海きらら・祭りの夜の幻想」
1998年5月1日

例によって、2月から3月はスランプで、ただ、三曲会の人間関係についていろいろ問題が生じていました。やはり人がたくさん集まると、問題が起きないほうがおかしい位だし。
んで4月は5泊7日でハワイでした。

今は定期演奏会の曲と火の鳥、沙羅(大嶽和久)、海きらら(水野利彦)をやっとります。あと他の社中とのダブりもあって、曲目の変更をし、土屋定夫の「祭りの夜の幻想」というのを入れました。いい曲です。
どの曲もテープを買っていないので、てこずっています。

突然ですが・・・・・・

古典とは
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1明治時代以前に作られたもの
2楽器を演奏する演奏者の多くが愛好し、かつ演奏される機会の多いもの
3一部の人しか演奏できないような難度のものでも、日本音楽史に重要であると衆目の一致する曲
(邦楽ジャーナル 宗 時行氏)
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だそうです。

1998年2月21日

1998年2月21日

この間の続きなんですが・・・・・・
私、やっぱり変わったよ。すんげえ上手くなった。
自分がなにをやっているのか、弾いててわかるんですよ。
譜を追ってるんじゃなくて、音楽やってるんです。
だから、他の人がなにかトチっても許せちゃえる。だからたじろがない。
ある段階のメンタルな極地にやっとたどり着いたって思う。
弾きながら、心の中で遊んでる。

・・・・・・てなことをのんきに考えてたら、私の求めてるものってこれかなあという文章に出会った。
老子の第7章より(加島祥造訳)
****この天地は悠久無変のように見えるが、それというのも、絶えず変化して、新しくなり、更にまた変化していくからなんだ。
  自我なんかに執着しないで、この悠久の変化に応じてゆけばいいんだ****

個性とか自我とかって、なんなんだろうってずっと思ってきた。「私らしい音」とか言ったってそれがなんなのかわからずにきた。
天地に身を委ねて、その中で今必要な音というのは、いつも一つのように思う。弾く人間がどれだけその流れに溶け込んでいけるか。
こんな風に感がえるほうが、私にとっては自然な気がするし、そういう考え方は、私には一番楽だと思う。
観梅で小規模ながらもやれたことは、これだったんじゃないだろうか。