もっと新しい世界

“SIFFY5″を聴いて

昨日は上野の文化会館でSIFFY5のコンサートがあり、行ってきました。

助演者の一人、平田紀子さんからの紹介です。

上野までは京浜東北線で1本で行けるし、会場は駅のまん前なので、方向オンチの私でも楽チンに行けました。(メデタシメデタシ)

小ホールとは言え、大きな会場。なんせ満席。
すごい集客力です。

SIFFY5のメンバーは、砂崎知子、石垣清美、深海さとみ、福永千恵子、吉村七重の各氏です。

20140108SIFFY5

今回は西村朗氏の作品5曲のプログラムでした。
っていうか、またしても無知な私は西村氏を存じ上げなく、作風も知らないと言う状態で参りました。

作曲者ご自身がステージ上で曲の解説をなさり、「超難しい曲ばかり」ですと告白なさったけど、本当に曲を理解するのも演奏するのもめちゃくちゃ難しい曲ばかりでした。
ともかくぶっ飛びます。
もちろん私たちが慣れ親しんでいる「邦楽」ではありません。
「洋楽」という範疇になるのかなぁ。
私には摩訶不思議な世界が展開していきます。

少し冷静になって客観的に「感じ」ようとすると、なんか自分が日本人じゃなく、かといってどこの国の人間と言うことでもなく、お筝という楽器を初めて見る感覚に襲われました。
よその国の民族楽器の演奏を聴いてるみたいな感じなのです。
だんだんそれはどこの「国」のものでも良くなって、だから曲が「洋楽」だというくくり方も出来なくなって、しかもお筝であるというこだわりもなくなって、お箏を弓でなぞったり、琴柱の左(本来弾かない)側で演奏していても、もはやそれ自体はどうでも良く、ひたすらつむぎ出される「音」の色や匂いを捉えたくなっていきました。

しかし、その感覚を持続するには初心者すぎてちょろちょろ現実にもどってしまい、フラフラになります。

高いレベルの感性がないと絶対演奏できないと思います。 もちろん、絶対的なテクニックがあってこその演奏です。

聴くほうも理屈じゃなくて、曲が発信する世界をまさに感性で聴いていないとすぐにぶっ飛ばされる訳です。

平田さんにメールで感想を送ったら、「弾くのも聞くのも全力投球!」と返信が来ました。
ほんとです。

平田さんのコンマスぶりも超カッコよく、張り詰めた空気に私も同じタイミングで呼吸してる感じになりました。

午前中栄区の区役所でミニコンサートがあり、早朝からバタバタしたあとだったので、体力全部使い果たした感じです。午後10時帰宅。なが~い一日でした。

 

久しぶりです「ゆる人ライブ」

先日(12月23日)、久しぶりに高円寺のスタジオKでの「ゆる人ライブ」に行ってきました。
2回公演だったので、昼の部へ。
前回利根君の追悼演奏会のとき見つけた「座・高円寺」というホールの中にあるレストランで、ランチしました。
このホールは、来年1月16日、澤村君主宰の「ボイススペース」のライブがあります。

さて、いよいよライブです。
しばらく行かないうちに、出演者の数は増え、コント感満載のものすごいライブに拡大していました。
以前伺ったときは、合間に純粋に「演奏」の時間があったと思うのですが、いつの間にやら演奏者はステージの両脇に陣取り、中央はパフォーマンスのオンパレードという演出になっていました。

池上眞吾さんの作曲、編曲のすごさと演奏者のレベルの高さには、舌を巻くばかりなのですが、なんたってステージ中央で繰り広げられるハチャメチャ小芝居、大芝居に爆笑の連続。
観ながら、聴きながら、こっちも大忙し。

入れ替わり立ち替わりで演奏側に回るんだけど、とにかくみんながみんなレベルの高い演奏者だから、小芝居、大芝居も臨場感が増すわけです。

田嶋謙一君はたぶんほとんどの演出をしていて、自らも「女装で歌う」というハッチャケぶりで会場を笑いの渦に巻き込み、澤村君も日吉君も「ソレデヨイノカ?」と尋ねたくなるようなはじけっぷり。それ以外にも「田嶋謙一オルケストラ」の山田淳平君、深海さとみ先生のご子息の吉川卓見君。と、みんな知ってる顔なんだけど、それぞれ「ゆる人」化しているのです。
たまたま謙一君の母上が隣の席に座られたのですが、「あんな息子に育てた覚えはない」と言いつつ、ついには噴出して。
無理ありません。だって、おっかしいんだもの。

と、と、ともかく。この年の瀬に来て、なんだかすっきりして帰って来ました。

吉崎克彦リサイタルを聴いて

さてさて12月7日は吉崎克彦氏のリサイタル。
そこに日吉章吾君がゲスト出演。
これは聴きにいかにゃぁと、日吉君にチケット送ってもらっていざ銀座へ。

新曲もあるというので、いろんな「もしも」という気持ちも手伝ってワキワキ。
しかし、「もしも」は一瞬にして「無し」と相成りました。

解説します。
「もしも」=私が弾けそうなら
「無し」=絶対無理

ま、そこからは単純に視聴者に浸れるので、むしろ気楽におおいに楽しみました。

全体的に感じたのは、吉崎さんの音の強さですね。メリハリをつけ、当然ハリのところで強調されるわけですが、かなり激しく強く。もちろん相方の富島順子さんの三弦なりお筝なりもそれに呼応するわけで、曲の印象がとても強くなります。
「表現力」ということなんだと思います。

ゲストの一人、中井智弥君も初めて見ましたが、チョーかっこいい。

途中のインタビューで、「吉崎さんは、自由に弾かせてくれました」って言ってたとおり、吉崎さんと富島さんとのデュオと、中井君、日吉君が入ったときの演奏では、空気や色がまた違うものになっていたと思います。色が増えますので、雰囲気も違うスタンスが加わるような。
日吉君も、「よいろ」の時とも「男で地唄」の時とも「ゆる人」の時ともまったく違う雰囲気でした。そのひとあじ違うかっこよさに、つい見とれてしまいました。

たっぷり目の保養と耳の保養をしてまいりました。

胡弓を聴いてきました

11月30日「高橋翠秋・胡弓の栞」の演奏会に行ってきました。
日吉君からの紹介です。

「胡弓」は邦楽をやっていても馴染みのない場合もあります。
今回も「高橋翠秋」さんという人物も知らなかったため、あらかじめインターネットで調べてみました。
まず、「女性だったのか~」とびっくり。
次に、その芸歴にびっくり。(詳しくはインターネットでどうぞ)

演奏曲のなかに、「男で地唄」のときにも演奏された「古道成寺」が含まれていて、しかも三弦が富山清琴氏とそれだけでもゴージャスなプログラムでした。

「黒髪」も、胡弓でというのは初めてでしたが、あの曲の持つ色香がしっとりと強調され、せつなさがぐんと身近になった気がします。

胡弓のなんたるかも知らない状態でしたが、実に自在で豊かで多種多様な表現方法を持っている楽器なんだとわかり、「目からうろこ」。

無知な私でも、次第に胡弓のもつ独特な世界観に引き込まれていきましたが、その中でも圧巻は最後の高橋翠秋さん作曲の「胡流絲彩々(こりゅういとさいさい)」。
ご本人が「私なりの胡弓の流れを彩る音の屏風絵を紡いでみました。」とプログラムに記載されたとおり、あでやかな音の変化、奏法の多様性には驚くばかりでした。
しかも曲の最後はいわゆるフェイドアウトなんです。
すーっと演奏が遠のいて行く中、幕が静かに下りてきたときには鳥肌がたちました。

お囃子の方も、なんかテレビで見たことがあるような・・・・・・?

なんにせよ、また新鮮な世界をのぞき見ることが出来ました。

 

 

 

男で地唄

昨日は、東京深川のお寺で、「男で地唄」を聴いてきました。

私にとっては、新鮮な驚きと感動に満ちた会でした。

まずは、「さむしろ」。これは故中井猛氏の追悼曲として。
知り合いとしては、澤村君と日吉君が出演していて、更にはお話をしたことはないけれど、村澤丈児君も入っての演奏の素晴らしさには感服しました。
しかし、それにも増して池上眞吾先生の三弦の音色にも心を奪われてしまいました。
必要なところで「音が立つ」と言う感じ。

私なんぞは、とやかく感想など言う耳など持っていないと思いますが、理屈ではなく、心奪われてしまうのはいたし方ありません。

また、長谷川慎氏による「野川流地唄三味線」と言うものについての講義があり、大変興味深く聞かせていただきました。

その講義の後、復元された明治時代の三味線3丁での演奏。
その音の野太さにとてつもない音の広がりを感じました。
撥も駒も普段拝見したことのないものでしたが、そこから出てくる音は、どこか人間くさいというか、「楽器」以上のものというか、自然体な感じがするのです。
曲も「早舟」(野川流三味線本手組歌中組)という初めて聴くもので、唄が15番まであるのです。その歌詞がおもしろい。
また、曲そのものが、なにもわからない私でも実に楽しいのです。
基本、三味線音楽なのはもちろんわかっていますが、時に琵琶のようであり、時に胡弓のようであり、時に現代音楽の音並びに聴こえてきます。ハイカラなんです。新鮮な感動をしました。

そのほか、ご当地ものとして「文月」。利根君も演奏していたという「古道成寺」。
プログラムに(聴く方の年齢を考えてか、字が大きくて見やすい)全歌詞が印刷されていて、曲の意味を考えながら、感じながら聴くので、ついに普段の「誰の演奏が」とか「あの人の技術が」という聴き方は吹っ飛んで、 ただひたすら「音楽」にのめりこんでしまいました。

それでも澤村君の泣かせてくれる唄や演奏のバランス、日吉君ののびやかで色っぽい唄やはぎれのよい手さばきは見逃さずに聴いて来れました。

大人の、日本音楽の、コンサートでした。